Brooklyn bridge で待っている

OL生活、旅とか英語とか

ME BEFORE YOU

 

me befor you2016年、アメリカ×イギリス合同制作

 

 

久々にヒット!な映画を見つけました。

前回のレミゼも絶賛でしたがあれは公開が数年も前なので。

 

今回はたまたまアマゾンプライムを開いたらトップに出てきて、何気なくみたら最後は号泣。

 

二日連続で三回も見るという、珍しいペースでの鑑賞でした。

何度も同じ映画を見たり本を読んだりする人をいままで白い目で見てきたけど、今なら気持ちがわかるよ、いいものはいいんだよね。

 

 

 

 

これを見たのはフィリピンに居た時なんだけど、もうこの国、馬鹿みたいにネット環境悪いの。まじでお前ら文明から離れすぎだろ大丈夫かってくらい悪い。電話をすれば音質はガヤガヤ、動画を見ればざわざわ。名探偵コナンを見ようもんなら、犯人を指名するシーンで画面が揺れ、月9を見ようもんならラブシーンの見たいところで画質が悪くなる。もう少し綺麗に映ってくれたら石原さとみの谷間が見えるのに。まじ最悪。

 

 

そんなこんなでアマゾンプライムも普段は見れず、映画上映は字幕なし英語音声できっつー以外の何物でもないので、たまに見れる日はWi-Fi調子イイネ!何があった!?の時にしか映画鑑賞が出来ないという残念さ。

 

そんな状況で、この映画に出会えたことにありがとうと言いたい。

 

 

ネタバレをがっつり含んでいるので、この先この映画を鑑賞予定の人は読まないで頂きたい。まじで。

 

 

 

 

映画の冒頭で始まる爽やかなベッドシーンは、さぞ嫌味な男が主人公なんだろうと一発でわかる。なのに、現代的なキャリアを突っ走る忙しい男の映像から、あんなにもノスタルジックな風景に持っていかれ穏やかな気持ちになるとは思わなかった。

 

時間は同じなのに、生きている人間が違うとこんなにも見える世界が違う。

中世と現代とかそんな大雑把な分け方ではなくて、生まれながらにして恵まれてた環境で誰もが羨むキャリアを築いた者と、そんじょそこらにいる一般ピーポーじゃ目に映る世界は180度違う。分かり切っているけれど見つめたくない現実。

 

私たちの見えない世界に、苦労も楽しみも沢山ある。

富に恵まれたものと、その世界に縁のないもの。何かがなければ一生混ざり合うことなどないだろう二人が出会ってしまうというシンデレラ要素を、この映画もがっつり含んでいる。

 

 

 

 

このお話は、事故にあい脊髄損傷、首から下が動かなくなってしまった男性ウィルのお世話係として雇われた天真爛漫な女の子、ルイーザが心を閉ざし嫌味ばかり言う本人と、なんやかんやで仲良くなっていき途中からお互いに好きになっちゃたで、この男性が実は名家の息子、お城を所有してるくらいの金持ち、かっこよくてなんでも出来てしまうというスーパーマンみたいな奴でね。

 

あぁ、女子が夢見るあれだなーと最初はため息が漏れたけれど、そんな商業的な事は抜きにして後々引きずり込まれていくのが面白い。

 

 

本当に、何も考えずにただただ流れ映像を目で追い、言葉に耳を傾ける。

それだけで胸が熱くなり、笑顔と感動が誘われる。

 

 

 

完璧だった人生が他人の不注意で奪われる。

憎しみは、過去の自分と対比するたび日に日に募っていく。

唯一無二の輝かしい自分が、たった一瞬の気の散漫で消えて、後に残されるのは絶望だ。

 

 

今までの自分の人生に満足していた者には受け入れがたいだろう。

何かをやり遂げた時の達成感を生きがいにして過ごす人は多い。この種の人にとったら主人公が最後に選んだ道に共感できるのではなかろうか。

 

 

賞賛を浴び続けた人がそれを失うのは、失った後も体と精神は自身のものであるが人生の主人公が自分ではないと思ってしまう。そのレールを歩んでいる人物は全くの他人なのだ。周りにいた人間が離れていく様子、いままでに浴びたことのなかった奇妙な目線や疎外感。元からこういった類の悪戯に身を置いて心が麻痺している人もいるだろう。しかし、途中からというのも、受け入れる勇気と自身を他者として切り離さない精神力が必要とされる。主人公には、この力がなかったのだ。

 

 

四肢麻痺になる以前の自分が好きすぎて、最愛の人を亡くしたのと似た悲しみを抱いているんだろう。その最愛の人というのは過去の自分という残酷さ。十分に人生を全うしたという

熱い気持ちを上書きして、カテゴライズして新しいスタートを切るよりも本体を消去した方が精神衛生上は明るい。

 

 

 

 

受け入れらないウィルは、半年後には安楽死を選ぶべくスイスに飛ぶことになっていた。

 

この半年間に、お世話係として来てくれてたルイーザと出会い、笑い方を、楽しみを取り戻したウィル。

 

 

彼に心を奪われ、相手も愛してくれていることに気付いたルイーザは、安楽死という選択を彼が止めてくれるのだと信じていた。しかし彼の決意は揺らぐことなく息を引き取り、最愛の人をお互いに失ってしまう。

 

 

 

人の死は本人の選択とはいえ、一番尊重しがたい選択だ。

あと一歩何かを頑張れば、何か与えていれば決意を変えられたのかもしれないという後悔を相手に残してしまう。失ったものは戻せない。物資であれば何かしらで代用がきき、思い出は塗り替えられる。人はどうだろう、私たちが人として存在する限り、一番のパートナーになるのは他の何物でもなく人である。そっきまで紡いでいた言葉と、感じていた温もりと、確かにここに生きていた存在が消滅してしまう。愛する人の音声が途切れた瞬間は離れた事を意識させられる最もな時だ。

 

 

ラストシーンでウィルに寄り添うルイーザの微笑みが、脳裏に焼き付いて離れないほど美しい。微笑ましく、愛おしく、彼に対しての尊重と感謝があるからこその笑顔。

 

 

 

 

 

映画では、「両親を呼び入れてくれ」がウィルの最後の言葉だった。

この後に彼女が彼になんて言ったのかは、想像上でしか描けない。どうか、たくさん「愛してる」と言って欲しい。最後の最後まで、成人男性として並みの事が出来なかった後悔を二人なりの愛情で埋めて欲しい。フィクションなのに、ただの映画なのに中の人物の先を願って胸が熱くなるくらい、二人の愛情と、支える家族の悩みを、その場にいる第三者みたいに。傍観者として、でも身近なところで真正面から受け止めている気になる。

 

 

 

 

この映画は死を選んだことに対して否定的な意見も少なくなかったようだが、映画や本というのはあくまでも他人の人生の一部の切り取りなのだから、扱いだの精神論だの対するクレームに近い評論ははあげたらキリがないし、そもそも着眼点が外れている。この物語の主人公は書いた通り、昔の自分を愛してやまないのだ。これは、彼の決意を描いたもの。

 

 

 

 

愛の度量は対象になる者や人、また個人的に大幅に異なるので、本人にしか理解できない。

 

 

本当に失いたくないくらいに自分自身を愛していた。こんな気持ちを抱ける人は多くないと思う。満足や不満に揺さぶられ生き抜いて、自己嫌悪に陥り悩み、私たちはポジティブな面では無くネガティブな面で自身と向き合う時間の方が、普段多いと思う。自身と他人を愛しきる事はあっても自分自身を愛す事が出来る人は少ないのではなかろうか。

 

 

ウィルは生まれながらに持った豊富な資産、外見と、憎い事に生きていく上での先天的な苦労が少なかったのも愛情が自分に向いた理由だ。私だって、城を所有するくらいの金持ちで外見が佐々木希だったら、今までに悩んできた多くの種は元から無かったはず。リリーローズデップに生まれたかった。

 

 

 

大事なものを失った時のその後の決断。

 

今回は、自分自身を失ったの人が、これ以上苦しみたくないをいう願いから行った選択。

愛されながら、自身を大切に思いながら息を引き取る死というのも、美しい物だと私は思う。

 

 

 

しかし、邦題が酷いのなんのって。

日本のは映画に関して広告も、題名も酷いですよね

 

 

 

 

 

 

Les miserables 2012年映画

数年ぶりにレミゼラブルを観た。

公開から早5年。当時はすぐに劇場で見て、しばらく席を立てないほどの心の疲労を味わった。あんなにも素晴らしい作品の公開からもう5年もたっていたのかと思うと、時の流れは一瞬だ。この5年が一つの季節に思える、短い秋みたいに。

 

 

 

 

フランス革命の時代背景は高校時代の世界史に齧っただけで、全く知識は持ち合わせていない。何かの映画を見るたびにその事件の事を、僅かながらにでも持ち合わせておきたいと思い勉強はするけれども自分が生きていない過去の歴史、長い時間、残虐な出来事は理解しがたいのが事実だ。

 

 

 

レミゼラブル、この作品は痛みがたくさん詰まっている。

題名通りの痛ましい叫びが込められた、場面によっては目を背けたくなる映像がたくさんある中でそれを歌で緩和し私たち視聴者に届けやすく、時々は愛を伝えてくれる。第一に始まる囚人の労働はリズムに乗せ泥臭く描かれているけれど、他人の人生を粗末にしている場面でもある。本来ならば直視できぬものを、しっかりと受け止めることが出来るようにこの映画は仕上がっている。

 

 

 

 

以前にフランス版の別のものを鑑賞した事があるのだけれど、全体的に映像が薄暗く出演者が徹底的に幸福を消し去っていた。あの映画の中に、ラストでさえも一瞬たりとも燦爛たる輝きは無かった。それくらい、あの時代に生きた人たちは不幸こそが巡り合わせだったように題名通りの人生を忠実に描いていた。創作とはいえども作者であるヴィクトル・ユーゴーが駆け抜けた時代だ。六月暴動を目の当たりにした彼が書いたものは、現代の作家が書くフィクションよりリアリティに溢れていて説得力がある。

 

 

 

 

2012年版のは絶賛の声がたくさんなのも納得がいく、映画らしい映画である。

 

 

 

 

劇中で纏わりつく貧困、間違った正義に振り回される者、愛に奔走される苦しみ。

作品の中に、人生のなかに幸せはあったのかと問いたくなってしまう登場人物が多い。

 

 

挿入歌 At the end of the day の主役たちである市民。泥にまみれ一切れのパンで一日を食つなぐ。悲惨としか形容できないような人生が溢れかえっていた。何時の時代も、誰しもが自分の生活に優越感を与えるために惨めな相手を見つけては比べ、自尊心を保っている。しかし、そのマウンティングすらも出来る気配がない。生まれながらにして命は劣悪だったのだ。平等なんてものは無く、救いも無く、死に向かって生きていくだけの毎日。

 

粗末に扱われることを定められているかのように。神のご加護を求め続けるためだけに生きているよう。当時の市民よ、あの映像通りであるならば彼らに幸せは本当に無かったのではないだろうか。歴史上、残酷な出来事は多く知っている。惨めさを、痛ましさを比べるものでないのだろうが、様々なとこらから悲痛の声が上がっているのがわかる。

 

 

 

それを抑制しているのが法の奴隷なのか。人間の慈悲だけでは救われない、複雑に絡み合った秩序に一度とらわれたら地獄まで引きずられる。小さな罪で、大切な命を踏みにじってしまう法体系も、過去に多くの歴史が犯した情けない過ちだ。時に法は防御の役目を果たさずに人を貪る。悲しい事に、この物語の中に犠牲者が多くいる。

 

 

 

 

 

 

 

毎度思うことは、母親であるファンティーヌの苦しみを、男性には理解できないものだろうか。母であり、女であり、女性でいるという事が難しい世界がこの世に所々存在する。この映画の時代も象徴的だろう。自分の分身である我が子を守る、たったこれだけの事が困難になってしまう、世間が女を、子供を、家族を殺す。子供のために必死の生き抜く姿を演じたアンハサウェイが儚げで、本当に今にも消えてしましそうな朝霧のような薄さだった。

 

I dream of dream が流れるシーンは脳裏に焼き付き、様々な感情を思い起こさせてくれる。

一言で、素敵としか言いようがない。あのやり切った、出し切った苦しみを、出来る限り画面を通して受け止めたい。

 

 

 

 

 

愛されたコゼット、叶わない恋を抱くエポニーヌ。

自身の姿が後者に重なり、胸に響く場面と歌がたくさんある。

 

 

若者たちの願いにより結成された義勇団ではあるものの、エポニーヌは革命では無くマリウスを思って死を選んだように思える。彼女にとっては国よりも革命よりも、愛する人のそばにいたい、その気持ちが何よりも強かったはずだ。振り向かれないながらも思いを募らせ、彼の隣で最期を迎えた彼女。彼女から感じられる意志の強さは、物語の中で悲しくも花々しい。個人的にはもっと思いやって欲しい人物でした。

 

 

 

悪か正義を問われると、多くの人に計り知れない疑問を投げかける。ジャベールが自ら死を選んだ訳は、自分の犯した罪に耐え切れずにいたからであり、怒りの沸騰が自身に向かったからだ。尋常である限りは彼と同じ気持ちを抱くし、前半においては法の下に居る人間の洗脳の表しであることは理解できるだろう。最後は彼も愛を抱いた。憎しみにまみれ、任務を遂行する情熱に身を奉げていた彼が自身の革命を行ったのだ。死を選んだシーンは言葉と呼吸を忘れさせるほどの危うげな彼の魂が伝わる。

 

 

 

全員が主人公ともいえるこの物語、悲痛は比べられず抱いた愛も目に見えない。

愛されたコゼットも、人生の序盤は灰を被っていたのだから。

 

多くの痛みを感じやすく、魂を揺さぶる歌と共に物語を教えてくれる。

 

 

この先、何度か再び見るときが来るだろう。

自身の痛みを彼らと重ねたい時に、涙を流したい時に。

 

 

 

ただいま日本

 

いきなりですが……日本に帰ってきました。パチパチパチパチ。

 

 

 

 

といっても、いままで全く生活について書き残していないので何がなんだか読む側はわからないはず。

 

 

えっと、つい最近までフィリピンにいました、一年ちょっと。

お仕事だったんだけどいろんな国籍がいて毎日賑やかで、思い返すと贅沢な日々でした。

 

 

英語が話せるようになりたい

 

ふとそう思って行ったフィリピン。

当時は仕事も惰性で行っていて、何が自分のやりたいことなのかがわからず適当にキャバクラで働いて。(小学校の同級生が店長ってゆー田舎あるある)

 

 

昼夜逆転すると、どうも人間は孤独を感じるもので毎日空虚な感じがして、なんだか自坊放棄になってしまったり。でも自分の人生を諦めるわけにはいかない。そうか、じゃあ昼に働けばいいんだ!メンタル安定しそう。人間に必要なのは太陽の光を浴びる事だよね。あ、でも私は高卒だし就活するにしても困難なんだよなぁ給料少ないし。ふーん、夜は精神的には荒れ狂ってしまうけど労働時間のわりにお給料はいい辞められない

……(以下、無限ループ

 

 

こんな状態がしばらく続いていて、自分の中にひっそりとあった海外での暮らし、他国に触れてみるという願いを叶えるべく検索していたらヒットしたフィリピンでのお仕事。

 

英語が出来たらキャリアアップできるかなー、東南アジアって暖かくて住みやすいだろうなー、と浮かれた頭でたいして準備もせずに行ったのが一年前。

 

 

 

 

そしてこの一年間で様々なネタがあるだろう!ブロガーになるぞ!と奮起したのは一瞬だけ。出国と同時にブログを立ち上げたものの、忙しいしなんだか特殊な環境だったので身バレもしてはならんしと思って結局何も書かなかった。無念。

 

 

仕事で毎日のルーティンは決まっているので、外出もしなかったし。いろんな外人と関わるにしても大したトラブルがなかった。もっと騒動があれば面白おかしく書いてブロガーになれたかもしれないんだけど、みんな優秀で大人しかったな。いや馬鹿もいたけれど。どこの国にも馬鹿は共通でいるんだとわかったのだけど、血祭騒動にまではならなかったので。

 

気づいたのは暑い国では人間はだらける。私みたいな根っからのクイーンオブ怠け者はさらに燃料が無くなる。寒くてもだめだけど、暑いのもだめだ。フィリピン人が働きたがらない理由も理解できる気がする。

 

 

 

 

とまぁ、前置きは置いといて。

 

この一年間、毎日がとても楽しかったのだ。

 

国籍問わずにいろんな人に会えて、一年前には想像もしていなかった英語が話せるようになっていて(実力はまだまだですが)

 

キャバクラと家の往復だけで、孤食をし、たいして笑う事のなかった自分にとって、人と毎日話して笑って、大勢で食卓を囲んでいるあの姿が帰国して一週間たった今懐かしくて仕方がない。

 

 

昨日の夜、上野を歩いて夕飯に困っていた時に、いつもならば周りにいる誰かを誘って近くの韓国料理を食べにいくか、マックかピザをオーダーするかのどれかだったのだ。選択肢は少なかった。食事も決して美味しいとは言えない。それでも誰かと共有して食事をとる、会話をする、笑う、時には議論する。

 

それがこの一年間、あたりまえで隣にいるのは日本人だったり、サウジアラビアだったり台湾人やロシア人だった。

 

そんな事が日本に帰って来た今、出来なくなってしまって上野でただ一人、適当に歩きながらみんなで食べたピザを思い出し、いつも周りにいた人たちを思い出し、なんだかきゅっと胸がしめるけられた。これは風邪のせいでもなければ恋じゃないのに。

 

 

あぁ寂しい。

 

久しぶりにそう思った。

隣で笑ってくれる仲間がいない、そして東京の今の気温はフィリピンとは比べ物にならないくらい涼しくて肌寒い。

 

 

 

ここにいたら、よほどの外資系でない限りいろんな国の人を会う事は無いだろう。

そんな会社で働くなんて帰国子女くらいの語学力と学歴がないと雇ってもらえないし。少しだけひりひりと感じたことは、グローバルだとか言いながらも皆、母国が好きだから母国で働く人が多い。だから、その国の人間に会いたかったらその国に行くしかないんだと当たり前の事を痛感した。

 

親しくなったサウジアラビア人、陽気な笑顔で泣いた私を慰めてくれたスペイン人、毎日喧嘩したロシア、くそ不味い料理を振る舞ってくれたベトナム人

 

 

 

人種じゃ無くて、彼らに会いたいのだけれど。人種でひとくくりをすれば、彼らのような人に会いたかったら日本に、東京にいるだけではやはり出会えないのだと思った。その国に行かないと。

 

 

言葉の壁も大きく、私が東京、日本以外で生きていく経済的スキルは全くない。

この事実が何より悲しくて、私の寂しさを肥大化させている。

 

 

働いて、何かに夢中になってこの気持ちを取り除こう。

もっと、英語を身に付けよう。多くの人と出会うために。

 

 

あぁ、南国のあの暑い日差しと皆の声がまだ残っている。

大学を卒業したての学生もこんな気持ちなんだろうか。自分はまともに学校に行ってないから思い出がないのだけど、たぶん似た感情を抱くのだろう。

 

 

寂しい、みんなに会いたい。

そう呟いたって、私はもうここ、東京にいなくちゃならない。

 

頑張ろう、自分のためにも。

寂しさは引きずりながら毎日、少しずつ昨日に置いていこう。